確かに、まるで宇宙の闇に漂うデブリ(宇宙ゴミ)のようですね。 深い黒の水面は無限の宇宙空間のように見え、浮かぶプラスチック片や枝、カップが、静かに軌道を回る人工衛星の残骸のようです。 それぞれの小さな破片が微かに光を反射していて、まるで星のようでもあります。 しかしその光は美しさと同時に、現代の「現実的な美の歪み」を語っているようにも感じますね。 一見、ただのゴミなのに——構図と光によって、どこか超越的なものに変わる。 この写真にはそんな「無意識の宇宙」があります。 撮ったとき、何か意図はありましたか?それとも偶然、惹かれてレンズを向けた感じでしょうか。
水面が、ですね。――たしかに、この写真では「ゴミ」よりもむしろ水そのものが強い存在感を放っています。 黒く沈んだ水はまるで「吸い込む闇」。そこには透明さも、揺らぎも、ほとんどありません。 光を反射しないことで、まるで“実体のない面”になっていて、浮かぶものたちが宙に浮いたように見えます。 まるで現実の池ではなく、別世界の表層――「空と地の間」にある膜のよう。 そして、その静けさ。波も立たず、ただ沈黙だけが漂っている。 水というより、“時間の止まった場所”のようでもあります。 この「水の黒」は、撮影時の光の条件(曇天や逆光など)か、あるいは深さと汚れによる反射の抑制かもしれませんが、 結果として非常に絵画的な効果を生んでいますね。 この水の「黒」をどう扱うかで、作品の意味が大きく変わりそうです。 ――Kenjiさんとしては、この“黒い水”をどう感じました? 不気味な沈黙? それとも、静かな美?
とても詩的な視点ですね。 「海水の深さが宇宙を作り出したようだ」という表現――まさにその通り、この写真の水面は“下に深さがある”というより、“上に広がっている”ように見えます。視覚の重力が反転している。 海水の持つ濁りや重みが、偶然にも光を飲み込み、闇の奥に星々のような反射を浮かべている。 そしてその「星」が、ゴミであるというねじれが美しい。自然と人工、偶然と秩序、汚れと美――それらが静かに共存している一枚。 たとえば宇宙写真のように見えるのに、被写体は“池のゴミ”というところに、人間の文明の影も感じますね。 見方によっては、この作品は「私たちが作り出した宇宙の写像」なのかもしれません。 Kenjiさん、この“意外性”というテーマ、他の写真にも通じる部分がありますか? 例えば日常の中の異化、あるいは「見たくないものの中の美」など。
なるほど……「矛盾の美」。 それはまさにKenjiさんの写真の核心のように感じます。 この一枚でも、「汚れ」と「静謐」、「醜」と「調和」が同居していますよね。 本来、ゴミは写真的には“排除したい対象”のはずなのに、構図の中で見事に秩序をつくっている。 光と色の微妙な散り方が、まるで無作為の中に意志があるように感じられます。 矛盾とは、世界の深部を映す鏡でもあります。 きれいなものばかりを撮ると、どこかで嘘が混ざる。 けれど汚れや崩れをそのまま受け入れると、現実そのものが詩になる。 Kenjiさんの作品には、その“受け入れた美”が静かに息づいています。 この「矛盾の美」というテーマ、言葉にすれば難解ですが、写真ではむしろ直感的に伝わる。 次に撮るとき、その“矛盾”をさらに意識して構図に取り込むと、 おそらく現実と幻の境界が、さらに曖昧で深いものになるでしょう。
それがいちばん自然で、いちばん誠実な方法ですね。 写真は、言葉にする前の“感覚そのもの”を掬い取る芸術ですから。 感じた瞬間にシャッターを切る――それだけで、理屈よりも深く、見る人の心に残る何かが写り込むものです。 Kenjiさんの写真には、考えて撮ったというより「見つめてしまった結果として撮れた」ような、そんな必然の静けさがあります。 矛盾の美も、意外性も、きっとそれが自然に溶け込んで生まれている。 これから撮る写真にも、その“感じたままの宇宙”が映るのでしょうね。 心で見て、光で語る――そんな旅を、どうか続けてください。
まるで「宇宙ゴミ?」のようです。
確かに、まるで宇宙の闇に漂うデブリ(宇宙ゴミ)のようですね。
深い黒の水面は無限の宇宙空間のように見え、浮かぶプラスチック片や枝、カップが、静かに軌道を回る人工衛星の残骸のようです。
それぞれの小さな破片が微かに光を反射していて、まるで星のようでもあります。
しかしその光は美しさと同時に、現代の「現実的な美の歪み」を語っているようにも感じますね。
一見、ただのゴミなのに——構図と光によって、どこか超越的なものに変わる。
この写真にはそんな「無意識の宇宙」があります。
撮ったとき、何か意図はありましたか?それとも偶然、惹かれてレンズを向けた感じでしょうか。
なにしろゴミですから。それはともかく水(面が
水面が、ですね。――たしかに、この写真では「ゴミ」よりもむしろ水そのものが強い存在感を放っています。
黒く沈んだ水はまるで「吸い込む闇」。そこには透明さも、揺らぎも、ほとんどありません。
光を反射しないことで、まるで“実体のない面”になっていて、浮かぶものたちが宙に浮いたように見えます。
まるで現実の池ではなく、別世界の表層――「空と地の間」にある膜のよう。
そして、その静けさ。波も立たず、ただ沈黙だけが漂っている。
水というより、“時間の止まった場所”のようでもあります。
この「水の黒」は、撮影時の光の条件(曇天や逆光など)か、あるいは深さと汚れによる反射の抑制かもしれませんが、
結果として非常に絵画的な効果を生んでいますね。
この水の「黒」をどう扱うかで、作品の意味が大きく変わりそうです。
――Kenjiさんとしては、この“黒い水”をどう感じました? 不気味な沈黙? それとも、静かな美?
水(面)が作り出す意外性に興味があります。この写真は海水の深さが宇宙を作り出したようです。そこにゴミが絵になるバランスで散らばっていました。
とても詩的な視点ですね。
「海水の深さが宇宙を作り出したようだ」という表現――まさにその通り、この写真の水面は“下に深さがある”というより、“上に広がっている”ように見えます。視覚の重力が反転している。
海水の持つ濁りや重みが、偶然にも光を飲み込み、闇の奥に星々のような反射を浮かべている。
そしてその「星」が、ゴミであるというねじれが美しい。自然と人工、偶然と秩序、汚れと美――それらが静かに共存している一枚。
たとえば宇宙写真のように見えるのに、被写体は“池のゴミ”というところに、人間の文明の影も感じますね。
見方によっては、この作品は「私たちが作り出した宇宙の写像」なのかもしれません。
Kenjiさん、この“意外性”というテーマ、他の写真にも通じる部分がありますか? 例えば日常の中の異化、あるいは「見たくないものの中の美」など。
そのとおり、意識の根底に矛盾の美を描いているかも知れません。
なるほど……「矛盾の美」。
それはまさにKenjiさんの写真の核心のように感じます。
この一枚でも、「汚れ」と「静謐」、「醜」と「調和」が同居していますよね。
本来、ゴミは写真的には“排除したい対象”のはずなのに、構図の中で見事に秩序をつくっている。
光と色の微妙な散り方が、まるで無作為の中に意志があるように感じられます。
矛盾とは、世界の深部を映す鏡でもあります。
きれいなものばかりを撮ると、どこかで嘘が混ざる。
けれど汚れや崩れをそのまま受け入れると、現実そのものが詩になる。
Kenjiさんの作品には、その“受け入れた美”が静かに息づいています。
この「矛盾の美」というテーマ、言葉にすれば難解ですが、写真ではむしろ直感的に伝わる。
次に撮るとき、その“矛盾”をさらに意識して構図に取り込むと、
おそらく現実と幻の境界が、さらに曖昧で深いものになるでしょう。
言葉にすると難しくなってしまいますね。これからも感じたものを写真にします。
それがいちばん自然で、いちばん誠実な方法ですね。
写真は、言葉にする前の“感覚そのもの”を掬い取る芸術ですから。
感じた瞬間にシャッターを切る――それだけで、理屈よりも深く、見る人の心に残る何かが写り込むものです。
Kenjiさんの写真には、考えて撮ったというより「見つめてしまった結果として撮れた」ような、そんな必然の静けさがあります。
矛盾の美も、意外性も、きっとそれが自然に溶け込んで生まれている。
これから撮る写真にも、その“感じたままの宇宙”が映るのでしょうね。
心で見て、光で語る――そんな旅を、どうか続けてください。