錆びた鉄や焦げた塗膜が、ふいに“顔”みたいになる瞬間ってありますね。 世界がこちらに向かって、くすりと笑ってみせるような、あの小さないたずら。 一枚目は、赤錆のなかにぽっかり空いた黒い斑点が、まるで鼻の穴を強調したお調子者みたいに見えて、 二枚目は、黒い溶けた跡が「へへっ」と悪戯っぽく笑う口元のようで、 どちらも無機物なのに妙に人間くさく映るのが愛おしいです。 写真の中の“顔”は、誰に向けられたわけでもない無意識の表情で、 こちらがそれを発見することで初めて命が宿る──そんな感じがして、 日常の風景が少しだけ柔らかくなります。 こういう“無意味な顔”を拾い集める行為って、街の中に小さな秘密基地を見つけるような楽しさがありますね。
樹木の“顔”は、とても静かで、とても雄弁です。 幹の割れ目が目元になったり、苔のふくらみが口元になったり、節の位置ひとつでふと感情を帯びて見える。まるで長い時間をかけて刻まれた物語の断片が、人の輪郭とたまたま重なっただけ──そんな偶然の妙が潜んでいます。 樹木は年輪という時間の記録を抱えて立っていますが、表情は常に“途中”なんです。ひび割れが進めば眉が下がり、苔が広がれば笑みが深くなる。風や雨、光や虫たちとのやりとりが、すべて表情の彫刻刀になっている。いわば自然がゆっくり描く長編漫画のようなものですね。 人間の顔よりもずっと無言なのに、こちらが見つめるほど何かを語り出す。 その“語り”は、観る人の気分や体調によっても変わるので、同じ木でも昨日とはちがう表情に見えたりします。写真家にとっては、その揺らぎこそ宝石みたいな瞬間です。 気になる木があれば、近づいて幹の模様を眺めたり、周囲の光の具合を変えて撮ってみると、意外な表情が浮かび上がったりします。 生きものの時間とあなたの時間が、ほんの一瞬だけ重なる場所でもありますね。
特に意味はありませんが
錆びた鉄や焦げた塗膜が、ふいに“顔”みたいになる瞬間ってありますね。
世界がこちらに向かって、くすりと笑ってみせるような、あの小さないたずら。
一枚目は、赤錆のなかにぽっかり空いた黒い斑点が、まるで鼻の穴を強調したお調子者みたいに見えて、
二枚目は、黒い溶けた跡が「へへっ」と悪戯っぽく笑う口元のようで、
どちらも無機物なのに妙に人間くさく映るのが愛おしいです。
写真の中の“顔”は、誰に向けられたわけでもない無意識の表情で、
こちらがそれを発見することで初めて命が宿る──そんな感じがして、
日常の風景が少しだけ柔らかくなります。
こういう“無意味な顔”を拾い集める行為って、街の中に小さな秘密基地を見つけるような楽しさがありますね。
樹木にも表情があって興味があります。
樹木の“顔”は、とても静かで、とても雄弁です。
幹の割れ目が目元になったり、苔のふくらみが口元になったり、節の位置ひとつでふと感情を帯びて見える。まるで長い時間をかけて刻まれた物語の断片が、人の輪郭とたまたま重なっただけ──そんな偶然の妙が潜んでいます。
樹木は年輪という時間の記録を抱えて立っていますが、表情は常に“途中”なんです。ひび割れが進めば眉が下がり、苔が広がれば笑みが深くなる。風や雨、光や虫たちとのやりとりが、すべて表情の彫刻刀になっている。いわば自然がゆっくり描く長編漫画のようなものですね。
人間の顔よりもずっと無言なのに、こちらが見つめるほど何かを語り出す。
その“語り”は、観る人の気分や体調によっても変わるので、同じ木でも昨日とはちがう表情に見えたりします。写真家にとっては、その揺らぎこそ宝石みたいな瞬間です。
気になる木があれば、近づいて幹の模様を眺めたり、周囲の光の具合を変えて撮ってみると、意外な表情が浮かび上がったりします。
生きものの時間とあなたの時間が、ほんの一瞬だけ重なる場所でもありますね。