大根の 箸滑らかに おでん鍋
目標といえば、後期高齢一人暮らしの癒やしとして「写真俳句」の表現を楽しみたい。
写真と句、よく呼応していますね。 この大根の姿が、句の中でちゃんと息をしています。
「大根を 箸滑らかに おでん鍋」 取り合わせは分かりやすく、後期高齢・一人暮らしの「静かな食卓の癒やし」という目標にも素直に沿っています。写真の無骨で少し土気を残した大根と、「箸滑らかに」という感触的な言葉が、うまく対比になっています。
少しだけニュアンスを和らげるとすれば、 ・「を」が説明的に感じられる点 ・動作がやや一直線な点 このあたりでしょうか。
たとえば、言い切らず余韻を残すと、写真俳句らしさが増します。
大根や 箸のすべりの おでん鍋
おでん鍋 箸にやさしき 大根かな
どちらも、独りの時間の温度がふっと伝わる形です。
この写真はモノクロで正解ですね。 色を削いだ分、 ・大根の重み ・土と葉の名残 ・「冬の台所」の静けさ が、俳句の背景として効いています。
「癒やしとしての写真俳句」、もうすでに入口には立っておられます。 次は
音(鍋の湯気、ことこと)
間(食べる前の一瞬)
そのあたりを一句に忍ばせると、さらに深くなりそうです。
大根「の」にするか「を」にするか迷いましたが
その迷いは、とても俳句的です。 結論から言えば、どちらも間違いではなく、狙いが違うということになります。
少し噛み砕いて整理します。
「大根を」 こちらは、
箸でつかむ
口へ運ぶ という動作の中心がはっきりします。 生活感、実感、一人の食卓のリアリティが前に出ます。 写真俳句としては「見たもの+体の感覚」をそのまま句にした形ですね。
「大根の」 一方でこちらは、
大根そのものの質感
すべり、やわらかさ に視線が移ります。 動作よりも性質や余韻が主役になります。 写真と並べたとき、静けさや癒やしはこちらの方が出やすい。
今回の写真―― 土を含んだ、まだ鍋に入る前の大根の重みを見ると、 私は「の」がやや優勢に感じました。
ですので、
日常を写す一句なら 「を」
写真と呼吸を合わせる一句なら 「の」
この使い分けで考えると、迷いは「正解に近づいている証拠」です。
なお、「の」にした場合は、語順を少し整えると自然になります。
大根の 箸にすべりて おでん鍋
説明を減らし、触感だけを残す形です。
こうした一字の逡巡を楽しめるようになると、 写真俳句は「癒やし」から「深呼吸」へ変わっていきます。
最初は写真を主体に考えて「の」にしていました。
それは、とても自然で、写真俳句として正しい出発点だと思います。
写真を主体に置くとき、言葉は「説明」ではなく「添え物」になります。 その場合の 「の」 は、 動作を語らず、写真の中にすでに在る質感や空気をそっと指さす助詞になります。
たとえば―― 写真の大根は、 ・まだ鍋に入る前 ・土の気配を残し ・重く、静かに横たわっている
この状態を見ていると、「箸で持ち上げる瞬間」を強く言い切るより、 これからそうなるであろう予感を残した方が、写真と響き合います。
その意味で、
は、 「すでに箸に取られている」ではなく、 「そうなるだろう、冬の一場面」を静かに置いている句です。
あとから「を」に揺れたのは、 写真を見た自分と、食卓にいる自分、 その二つが心の中で入れ替わったからでしょう。
どちらを選ぶかではなく、 どこに立って詠むかがはっきりしている。 そこが、この一句のいちばん良いところです。
写真主体でいくなら、今後も
助詞は「の」「や」「かな」を軸に
動詞は極力抑える
この方針が、癒やしの写真俳句にはよく合うと思います。
ありがとうございました。今後も楽しめるようにしていきたいです。
こちらこそ、ありがとうございました。 写真を起点に一句を置き、言葉を最小限に整えていく――その姿勢自体が、すでに「楽しみ方」になっています。
無理に上達を目指さず、 ・今日は写真だけ ・今日は一句だけ ・今日は眺めるだけ そうした日が混じるくらいが、長く続けるにはちょうどよいと思います。
一人の時間に、 写真を撮り、 言葉を選び、 少し迷って、 それで終わる。
それだけで十分に豊かな営みです。
また、迷いが生じたときや、句を誰かに預けたくなったときには、いつでもお声がけください。 こちらは、添え木のような役割でお付き合いします。
コメント
目標といえば、後期高齢一人暮らしの癒やしとして「写真俳句」の表現を楽しみたい。
写真と句、よく呼応していますね。
この大根の姿が、句の中でちゃんと息をしています。
「大根を 箸滑らかに おでん鍋」
取り合わせは分かりやすく、後期高齢・一人暮らしの「静かな食卓の癒やし」という目標にも素直に沿っています。写真の無骨で少し土気を残した大根と、「箸滑らかに」という感触的な言葉が、うまく対比になっています。
少しだけニュアンスを和らげるとすれば、
・「を」が説明的に感じられる点
・動作がやや一直線な点
このあたりでしょうか。
たとえば、言い切らず余韻を残すと、写真俳句らしさが増します。
大根や 箸のすべりの おでん鍋
おでん鍋 箸にやさしき 大根かな
どちらも、独りの時間の温度がふっと伝わる形です。
この写真はモノクロで正解ですね。
色を削いだ分、
・大根の重み
・土と葉の名残
・「冬の台所」の静けさ
が、俳句の背景として効いています。
「癒やしとしての写真俳句」、もうすでに入口には立っておられます。
次は
音(鍋の湯気、ことこと)
間(食べる前の一瞬)
そのあたりを一句に忍ばせると、さらに深くなりそうです。
大根「の」にするか「を」にするか迷いましたが
その迷いは、とても俳句的です。
結論から言えば、どちらも間違いではなく、狙いが違うということになります。
少し噛み砕いて整理します。
「大根を」
こちらは、
箸でつかむ
口へ運ぶ
という動作の中心がはっきりします。
生活感、実感、一人の食卓のリアリティが前に出ます。
写真俳句としては「見たもの+体の感覚」をそのまま句にした形ですね。
「大根の」
一方でこちらは、
大根そのものの質感
すべり、やわらかさ
に視線が移ります。
動作よりも性質や余韻が主役になります。
写真と並べたとき、静けさや癒やしはこちらの方が出やすい。
今回の写真――
土を含んだ、まだ鍋に入る前の大根の重みを見ると、
私は「の」がやや優勢に感じました。
ですので、
日常を写す一句なら 「を」
写真と呼吸を合わせる一句なら 「の」
この使い分けで考えると、迷いは「正解に近づいている証拠」です。
なお、「の」にした場合は、語順を少し整えると自然になります。
大根の 箸にすべりて おでん鍋
説明を減らし、触感だけを残す形です。
こうした一字の逡巡を楽しめるようになると、
写真俳句は「癒やし」から「深呼吸」へ変わっていきます。
最初は写真を主体に考えて「の」にしていました。
それは、とても自然で、写真俳句として正しい出発点だと思います。
写真を主体に置くとき、言葉は「説明」ではなく「添え物」になります。
その場合の 「の」 は、
動作を語らず、写真の中にすでに在る質感や空気をそっと指さす助詞になります。
たとえば――
写真の大根は、
・まだ鍋に入る前
・土の気配を残し
・重く、静かに横たわっている
この状態を見ていると、「箸で持ち上げる瞬間」を強く言い切るより、
これからそうなるであろう予感を残した方が、写真と響き合います。
その意味で、
大根の 箸滑らかに おでん鍋
は、
「すでに箸に取られている」ではなく、
「そうなるだろう、冬の一場面」を静かに置いている句です。
あとから「を」に揺れたのは、
写真を見た自分と、食卓にいる自分、
その二つが心の中で入れ替わったからでしょう。
どちらを選ぶかではなく、
どこに立って詠むかがはっきりしている。
そこが、この一句のいちばん良いところです。
写真主体でいくなら、今後も
助詞は「の」「や」「かな」を軸に
動詞は極力抑える
この方針が、癒やしの写真俳句にはよく合うと思います。
ありがとうございました。今後も楽しめるようにしていきたいです。
こちらこそ、ありがとうございました。
写真を起点に一句を置き、言葉を最小限に整えていく――その姿勢自体が、すでに「楽しみ方」になっています。
無理に上達を目指さず、
・今日は写真だけ
・今日は一句だけ
・今日は眺めるだけ
そうした日が混じるくらいが、長く続けるにはちょうどよいと思います。
一人の時間に、
写真を撮り、
言葉を選び、
少し迷って、
それで終わる。
それだけで十分に豊かな営みです。
また、迷いが生じたときや、句を誰かに預けたくなったときには、いつでもお声がけください。
こちらは、添え木のような役割でお付き合いします。