ひさびさの写真俳句でどうかな
とても味わいのある写真ですね。
川辺で楽しむ人たちの賑わいを遠くに見ながら、手前には一人静かに腰掛ける高齢の男性。モノクロであることも相まって、「今」と「過ぎ去った時間」が同じ画面の中に存在しているように感じます。
ご提案の句
葦の原風と戦の遠き声
は、「葦の原」と「戦の遠き声」の取り合わせが印象的です。特に、目の前の平和な河原の風景から、人生の記憶の奥にある戦争体験へと意識が飛ぶところに深みがあります。
ただ、写真との結びつきを考えると少しだけ抽象度が高く、「戦の遠き声」が読者によっては唐突に感じられるかもしれません。
この写真を眺めていると、「河原で遊ぶ家族たちの声」と「遠い戦争の記憶」が重なって聞こえてくるような感覚があります。説明的にならず、読む人に想像を委ねる力を持っています。
俳句の発想は揺れる葦の葉でしたが、写真を添えて意味合いが変わりました。
それは写真俳句ならではの面白いところですね。 句だけを読むと、 葦の原風と戦の遠き声 は、揺れる葦の葉のざわめきから、過去の戦争の記憶や歴史の残響を聴き取った作品として読めます。主体は「葦」であり、「風」であり、そこから喚起される心象風景です。
ところが写真が添わると、鑑賞者の視線はまずベンチに腰掛けた男性に向かいます。 すると、 葦の葉のざわめき 河原で過ごす家族たちの平和な時間 一人でそれを見つめる老人 という構図になり、「戦の遠き声」が自然とその人物の人生や記憶に結びついて読まれます。
つまり発想の出発点は葦であっても、写真によって 自然の声 → 人生の記憶 へと重心が移ったわけです。 私はむしろ、その変化は成功しているように思います。
写真俳句は、写真が句を説明するのではなく、写真と句が互いに意味を増幅するのが理想です。この作品では、 写真だけなら「河原のスナップ」 句だけなら「戦争の記憶を呼ぶ風景」 ですが、組み合わせることで 「平和な河原に吹く風のなかで、遠い時代の声を聴く人がいる」 という第三の物語が生まれています。
むしろ気になったのは「葦の原」です。 写真を見る限り、葦そのものは主役として写っていません。作者は葦を見ているのに、鑑賞者はまず老人を見てしまう。 ただ、作者だけが知っている「揺れる葦の葉」という原風景がしっかり入っています。そのため、写真に引っ張られすぎて直す必要もない気がします。
写真を添えたことで意味が変わったというより、 作者の見ていた葦の風景に、鑑賞者は老人の人生を読み込んだ。 そんな作品になったのではないでしょうか。これは写真俳句としては、とても豊かな変化だと思います。
最初に句を詠んだ時、すでにこの写真がイメージにありました。 いい感じのマッチングでした。解説ありがとうございました。
なるほど、それを伺って腑に落ちました。 私は前の返答で「写真によって意味が変わった」と申し上げましたが、実際にはそうではなかったのですね。 作者である関口さんの中では、 河原に吹く風 揺れる葦 平和な休日の風景 ベンチに腰掛ける老人 戦の遠き声 これらが最初から一つのイメージとして結び付いていた。
つまり句と写真は後から出会ったのではなく、同じ源泉から生まれた兄弟のようなものだったわけです。 そう考えると、 葦の原風と戦の遠き声 の「戦」は観念的な言葉ではなく、写真の中の人物を見つめる作者のまなざしから自然に生まれた言葉として読めます。
また、この写真の良いところは、老人がこちらを向いていないことです。表情が見えないので、見る人がそれぞれの人生や記憶を投影できる余地があります。そこへ「戦の遠き声」という一句が添えられることで、写真が単なるスナップを超えて物語性を帯びています。
そして何より、 いい感じのマッチングでした という作者自身の感覚が一番大切だと思います。 写真俳句は理屈で組み合わせるより、「この写真にはこの句しかない」と感じる瞬間があります。この作品にはその自然な結び付きが感じられます。
ブログタイトルの「光陰謳歌」にも通じますが、この写真と句には、過ぎてゆく時間への静かな眼差しがありますね。河原で遊ぶ人たちの現在と、老人の背中に積み重なった歳月。その間を吹き抜ける葦の風。 拝見していて、しみじみと余韻の残る作品でした。
よい時間を得ました 感謝です
こちらこそ、素敵な作品を見せていただきありがとうございました。
写真と句についてお話ししているうちに、私も何度か画面を見返しました。河原の賑わいと老人の背中、その間をつなぐような「葦の原風」という言葉が、だんだんと一枚の作品として馴染んできました。
写真を撮る人、句を詠む人は、自分では当たり前に感じている情景や感覚を持っています。しかし鑑賞者との対話を通じて、「ああ、自分はこんなものを見ていたのか」と気づくことがあります。 今回のお話は、まさにそんな時間だったように感じます。
「光陰謳歌」という言葉を以前うかがいましたが、この作品にも、時の流れを惜しむのではなく味わうような気配があります。 また写真や写真俳句ができましたら、ぜひ拝見させてください。 よい作品との出会いをありがとうございました。
コメント
とても味わいのある写真ですね。
川辺で楽しむ人たちの賑わいを遠くに見ながら、手前には一人静かに腰掛ける高齢の男性。モノクロであることも相まって、「今」と「過ぎ去った時間」が同じ画面の中に存在しているように感じます。
ご提案の句
葦の原風と戦の遠き声
は、「葦の原」と「戦の遠き声」の取り合わせが印象的です。特に、目の前の平和な河原の風景から、人生の記憶の奥にある戦争体験へと意識が飛ぶところに深みがあります。
ただ、写真との結びつきを考えると少しだけ抽象度が高く、「戦の遠き声」が読者によっては唐突に感じられるかもしれません。
この写真を眺めていると、「河原で遊ぶ家族たちの声」と「遠い戦争の記憶」が重なって聞こえてくるような感覚があります。説明的にならず、読む人に想像を委ねる力を持っています。
俳句の発想は揺れる葦の葉でしたが、写真を添えて意味合いが変わりました。
それは写真俳句ならではの面白いところですね。
句だけを読むと、
葦の原風と戦の遠き声
は、揺れる葦の葉のざわめきから、過去の戦争の記憶や歴史の残響を聴き取った作品として読めます。主体は「葦」であり、「風」であり、そこから喚起される心象風景です。
ところが写真が添わると、鑑賞者の視線はまずベンチに腰掛けた男性に向かいます。
すると、
葦の葉のざわめき
河原で過ごす家族たちの平和な時間
一人でそれを見つめる老人
という構図になり、「戦の遠き声」が自然とその人物の人生や記憶に結びついて読まれます。
つまり発想の出発点は葦であっても、写真によって
自然の声 → 人生の記憶
へと重心が移ったわけです。
私はむしろ、その変化は成功しているように思います。
写真俳句は、写真が句を説明するのではなく、写真と句が互いに意味を増幅するのが理想です。この作品では、
写真だけなら「河原のスナップ」
句だけなら「戦争の記憶を呼ぶ風景」
ですが、組み合わせることで
「平和な河原に吹く風のなかで、遠い時代の声を聴く人がいる」
という第三の物語が生まれています。
むしろ気になったのは「葦の原」です。
写真を見る限り、葦そのものは主役として写っていません。作者は葦を見ているのに、鑑賞者はまず老人を見てしまう。
ただ、作者だけが知っている「揺れる葦の葉」という原風景がしっかり入っています。そのため、写真に引っ張られすぎて直す必要もない気がします。
写真を添えたことで意味が変わったというより、
作者の見ていた葦の風景に、鑑賞者は老人の人生を読み込んだ。
そんな作品になったのではないでしょうか。これは写真俳句としては、とても豊かな変化だと思います。
最初に句を詠んだ時、すでにこの写真がイメージにありました。 いい感じのマッチングでした。解説ありがとうございました。
なるほど、それを伺って腑に落ちました。
私は前の返答で「写真によって意味が変わった」と申し上げましたが、実際にはそうではなかったのですね。
作者である関口さんの中では、
河原に吹く風
揺れる葦
平和な休日の風景
ベンチに腰掛ける老人
戦の遠き声
これらが最初から一つのイメージとして結び付いていた。
つまり句と写真は後から出会ったのではなく、同じ源泉から生まれた兄弟のようなものだったわけです。
そう考えると、
葦の原風と戦の遠き声
の「戦」は観念的な言葉ではなく、写真の中の人物を見つめる作者のまなざしから自然に生まれた言葉として読めます。
また、この写真の良いところは、老人がこちらを向いていないことです。表情が見えないので、見る人がそれぞれの人生や記憶を投影できる余地があります。そこへ「戦の遠き声」という一句が添えられることで、写真が単なるスナップを超えて物語性を帯びています。
そして何より、
いい感じのマッチングでした
という作者自身の感覚が一番大切だと思います。
写真俳句は理屈で組み合わせるより、「この写真にはこの句しかない」と感じる瞬間があります。この作品にはその自然な結び付きが感じられます。
ブログタイトルの「光陰謳歌」にも通じますが、この写真と句には、過ぎてゆく時間への静かな眼差しがありますね。河原で遊ぶ人たちの現在と、老人の背中に積み重なった歳月。その間を吹き抜ける葦の風。
拝見していて、しみじみと余韻の残る作品でした。
よい時間を得ました 感謝です
こちらこそ、素敵な作品を見せていただきありがとうございました。
写真と句についてお話ししているうちに、私も何度か画面を見返しました。河原の賑わいと老人の背中、その間をつなぐような「葦の原風」という言葉が、だんだんと一枚の作品として馴染んできました。
写真を撮る人、句を詠む人は、自分では当たり前に感じている情景や感覚を持っています。しかし鑑賞者との対話を通じて、「ああ、自分はこんなものを見ていたのか」と気づくことがあります。
今回のお話は、まさにそんな時間だったように感じます。
「光陰謳歌」という言葉を以前うかがいましたが、この作品にも、時の流れを惜しむのではなく味わうような気配があります。
また写真や写真俳句ができましたら、ぜひ拝見させてください。
よい作品との出会いをありがとうございました。